もう幾つ寝るとお正月―。
本当に、幾つになってもお正月が来るのは楽しみなものです。
特に子供のころは、待ち遠しかったものです。今のように、交通事故の心配もなく、のんびり道路ばたで、羽根をついたり、手まりをしたり、家中ですごろくや、カルタをして遊んだり、何より一番の楽しみはお年玉でした。
少女のころ、友だちと町へ出て、すてきなシールやシオリ、かわいい便せん、少女の夢を一杯みたしてくれるそれらすてきな買い物をすることが、とても楽しみでした。
高校時代、郵便屋さんが待ち遠しかったものです。
元日の朝、ドサリとなげこまれる年賀状の束、その中から自分あての年賀状をさがし出し、そしてその一枚の年賀状を手にした時の、淡いあこがれと、ひそかな胸のときめき。そのたった一枚の年賀状が何より貴重な物に思えるのです。
青春時代のみに許された虹のように美しい思い出もお正月の年賀状とともに忘れられないなつかしいものです。
そして娘時代、ひっそり寂しく迎えた病室でのお正月。
白い天井をみつめながら、私のダンナ様になる人はどんな人だろう、お正月の朝、ふっとそんなことを考えたことを思い出します。
バス会社へ勤めて正月休み返上して切符を売ったりお客さんの整理をしたこともありました。
やがて今のダンナ様と結婚して初めてむかえたお正月、やがて一児を囲むお正月から、二児を交えてのお正月、一年間の幼子のめざましい成長に、正月を迎えるたびに驚いています。そしてことしは三児を囲む正月になりました。
長い人生、きっと苦しい年や、悲しい年、つらい年、さまざまのことがあるでしょう。
でも来年こそはきっと、きっと、という希望をなくしてはいけないと思います。新しい年、小は家庭の中から、大は社会や国へと、前進することをみつめたいと思います。
春はどこからくるかしら、あの山超えて―わが家の春はこの四月一年生になる長男です。
初めてわが子が小学校に入学すると考えただけで、親としての責任を痛いほど感じてきます。
新しい机、ランドセル、学校へ行く日を指折り数えて、楽しみにしているわが子。
二年前、幼稚園の入園式の日「お母さん」といって、涙ぐみ私の側を離れなかったこの子。
入園して一週間、集団生活にはいれず、しょんぼり泣いたこの子。
二年間の集団生活で、見ちがえるほど、たくましく成長してくれました。この子が初めて小学生になる、泉のように喜びがわいてきます。
菜の花の咲き乱れる野道を見つけたら、私はこの子の手を取って「一年生おめでとう」と祝ってやりたい。
そして思いきりかけっこをしよう。
この子のこれから高校まで十二年間それとも大学までの十六年間の長い長い学生生活の出発点です。この長い長い学生生活に、この子ははかりしれないさまざまのことを学ぶことでしょう。
まだランドセルが歩いているような一年生、純心でかわいい一年生。
どの子もみなかわいいのです。その一年生の仲間に、この子がはいるんです。うれしいなぁ。
初めてこの子の口から「ああちゃん」と呼ばれた時のうれしさ、今この子が一年生になるうれしさ同じ大きい大きいうれしさです。
「みっちゃん、おめでとう」
先日の四季録の花の季節を読み、小泉教授のいっておられることに深く共鳴いたしました。
めまぐるしく移り変わる現代に、私のようなのんびりさんは頭の切り換えにとまどってしまいます。
先日、主人と三人の子供づれでお墓のそうじに行きました。
駅のすぐ近くなのに、お墓のまわりは自然のまま。うれしくなりました。
昔、子供のころママゴト遊びをした花や草、ヒューと鳴る草ぶえ、耳にもっていくとチリンチリンと音のした草。
名もない雑草の中で三人の子供を囲んで、お母さんの子供のころはこうしたのよ、とかお父さんの子供のころはこうだったと話して聞かせると、子供は目をかがやかせて聞いています。
何もかも便利になり、文化が進歩した現代。
しかし、その半面心と心のつながりや、うるおいや、いたわり、情緒も何もないさびしい人間に、なりはしないでしょうか。
義理も人情もだんだん薄れてしまいがちです。3C時代も去り今はもっと豪華な物を要求している時代です。
カラーもクーラーもカーもわが家ではほど遠い存在。
主人が「会社へ自転車で通っているのは、僕とだれとだれと数えるほどしかいない」なんて笑っていました。
せめてこんな時代、子供にだけは心のかさかさした人になってほしくない。心豊かな人になってほしいと願うのは無理でしょうか。
夕食がすむと、近くの遊び場に散歩します。子供といっしょにブランコやスベリ台をするのです。子供はいろいろ楽しいおしゃべりをしてくれます。学校のこと、友だちのことなど。母として幸せなひとときです。
夜八時を過ぎたらテレビは見ないことになっているわが家では、ふとんの上がプロレスのリングになったり、頭をひっつけて大きな声で歌います。
三人の子供のやすらかな寝息が聞こえると一人一人の子供のことを思いめぐらしながら、どうか神様心安まるあたたかい人々がみなぎる世の中になりますように。
共稼ぎをやめてもう三年になります。三人の子どもに明けくれる日々の中で、折にふれ思い出す人がいます。その人がさっちゃんです。
今の信用金庫本店の前に、自動車会社がありました。
もう十年も昔になるかしら、その当時、会社の事務所で働いていたころ、事務所の中に数多くの車掌さんが、出入りしていました。
その中で今でも忘れられない人がさっちゃんです。
さっちゃんはわたしより三つ四つ下だったと思います。
小柄な身体に、小麦色の肌、何より目が好きでした。いつも微笑みを忘れない、さっちゃんのまわりは暖かい風が吹いていました。
両親のいないさっちゃんは、わたしなど想像もできない苦労や悲しみがいっぱいあっただろうに、そんな暗い影など、みじんも出さすいつも明るい、ほほえみを忘れない人でした。
わたしたち事務所の職員皆で「さっちゃん、さっちゃん」と親しみました。
バスの中での、お客様への心くばりや、ほほえみ、その行動、ことばの一つ一つに、年若い彼女から学ぶことは大でした。
現場事務所で仕事をしていた関係で、何十人何百人とさまざまな人に接してきました。
でも十年たった今でも、すがすがしい春風の香りのように、心にとどめる忘れられない、懐かしい人です。
やがてさっちゃんは大阪へお嫁に行きました。
幸せで、優しいお母さんになっているとのうわさを聞くとうれしくって、うれしくって、自分のことのように楽しくなります。
心のやさしい彼女は、きっと良い奥様になっていることでしょう。
とても理知的な人でした。徳島のある小さな駅で初めてあった時、理知的で冷たいまでに美しい彼女に、羨望とあこがれのまなざしをあびせた私でした。知り合って七年目、初めてお会いしたのです。
そうです。私たちはペンフレンドだったのです。中学一年の時、少女雑誌に載った私の投書が縁で知り合いました。
それから高校、そして卒業して一年目、コツコツ働いてためたお金で、会いに行きました。
彼女のお父様は、徳島市内で税理事務所を開いていました。家は市から少し離れた西馬詰という所だったと思います。
あたたかいご家族のおもてなしに感激したり、何より彼女の案内で、眉山や、鳴門公園に行った時、鳴門のうず潮の雄大な流れに驚き、徳島の町々を肩を並べて歩いていたなつかしい思い出は、一生忘れられないと思います。
でもそれから二年ほどして、だんだん手紙がとだえ、ばったりなくなりました。
いくら出しても何の連絡もないのです。
それから十年近く、彼女の情報を知らないまま、結婚して三人の子供に、追われる日々の中で、彼女はどうしているかしら―。
それにしても、何ともご家族から連絡がないのも不思議だと、気にかかります。
自分が、あたたかく幸せな家庭の中にいればいるほど、彼女のことが心にかかります。
学生時代、彼女との手紙の交換はとても楽しいものでした。
何でも相談できました。悩みも、夢も一緒でした。あの人のこと好きなんです―そんなことも彼女にだけは語れました。
会いたいと思います。無性に。
子供たちが毎週楽しみにしているテレビに、木曜の七時から始まるタイガーマスクがあります。
「またプロレスのテレビが始まったのね」なんて、はじめは声をかけて、食事のあとかたづけをしていました。
ある日、ふと子供と共にテレビをみているうちに、何だか画面に暖かい情が流れているようで、それが病みつきで、毎週上の二人の子供と見るようになりました。
みなし子だった主人公が、プロレスラーとなり、悪役レスラーから、みなし子たちのはげましで正義派のレスラーになります。
子供にとって、このタイガーマスクはこの上ないあこがれの人らしく、試合で得た賞金で、いたる所のみなし子施設に援助します。
目のみえない貧しい少女のために、危険な試合に出場し、そのお金で開眼手術をさせ、名もつげず、去って行くタイガーに、子供は涙を流して「タイガーはえらいなあ。僕も大きくなったら、タイガーのような人になりたい」なんて、日ごろはいたずらな六歳の二男の口から聞くと、「おやっ」と目を開く思いです。
「僕だったら、賞金もらったら、全部上げられるかな?ほしいものばかりだし、でも僕にはおとうさんもおかあさんもいるもの。そんなにお金いらないし、エイッ、寄付するよ」なんて、一年生の長男はもったいぶって話します。
テレビのタイガーマスクのおかげで、上の二人の子供は少しずつ、みなし子の施設のことや、寄付するということについて質問するようになりました。
子供たちが大きくなったら、何でもいい、どんな小さなことでも、社会に役立つ人に成長してほしいと。
そのためにも、正直者がバカをみない世の中に。心正しい人は、必ず最後はむくわれる、子供たちに声を大にしてたたえられるように。
そんな世の中になるのはいつでしょうか。やはりわれわれおとな一人一人のしっかりした信念と自覚だと思います。
遠い山の向こうの知らない町よ♪〜
いつか馬車に乗って行きたいよ♪〜
学生時代、良く口ずさんだ歌です。
大海原の遠い世界に、輝かしい自分の未来を夢みて遠い山をめざして、平らな道やデコボコ道、いばらの道や底なしの恐ろしい沼地を、あえぎもだえ、苦しみながら人は登って行くのです。
自分の歩んだ道を、ふり返ることはあっても、決してうしろにはもどれないのです。
自分をささえるなにかを求めて、苦しみでなげ出したいことや、立ち止まって動けないこともあったでしょう。
遠い山の向こうの町を求めて、どれだけ歩かなければいけないのでしょうか。
今の私は、そう平らな、ゆったりした道を、歩いているのでしょう。何でも楽しく見えます。明るく見えます。
夫というやさしい伴侶を得、いたずらだけど、健康で明るい三人の子供たちに囲まれ、女として母として最高のしあわせだと思います。
だけど、これから先、どんな道が待っているのでしょうか。
はげしい風雨にさらされたり、なだれに出合うかもしれない。これから先の道のりはだれにもわからない。
でも、どんなに苦難の道が待っていようと、もしも来世があるのなら、私はためらうことなく、同じ道を歩むでしょう。
話すこと、なんだか苦手です。
ペンを走らすことは、比較的楽しみながら文をつづることができるのに、人と人の集まりでの話し合いや懇談会があると急におくびょうになります。
その人と話しているだけで、ほのぼのとしたさわやかさを感じる人に、時々出会うことがあります。うらやましくなります。
去っていった自分をふりかえる時、相手の何げない一言に、自分が傷つき悩んだこともありますし、また相手の何げない一言に、たまらなく楽しい気分になることも、しばしばです。
私自身、知らないうちに、相手を傷つけたこともあったかもしれない。そう思ったりすると、ますます話すことが苦手になります。
優しく話しかけてくれたりする人に出会うと、こちらまで、豊かな心になります。
話しじょうずに聞きじょうずとか、いくら楽しく話しても、相手の話もじょうずに聞いてあげることもまた大切。近ごろとくに感じたりします。
子供がだんだん大きくなり、学校や、いろいろな集まりが多くなるごとに、話すことの大切さと、聞くことの大切さも、必要になってきます。
ひかえめで、女らしさもいいかもしれない。でもやはり必要な時には、はっきりと自分の主張、意見を発表できるようにならなければと、切々と感じています。
ドタン、バタバタ満二歳をすぎた三男は、ちょっと油断すると、ハダシで表へスタスタ。
「待ってらっしゃい」なんて、上品なこといって追っかけていたのでは間に合わない。
おかげで、せっかくの色白も、お日様はえんりょなく照りつけて、顔も手もまっ黒。
三人の男の子に囲まれて、毎日のにぎやかなこと。一日里のお店とわが家をきりきり回って日が暮れてしまう。
それでも私たち夫婦は、まだ二人ぐらいは子供がほしいなんて話し合ったりする。
友だちの中には、小学生一人きりで、子ばらいも終わってのんびり、奥様業に専念している人もたくさんいる。
テレビの話をしても、こちらにとんと通じない。昼のメロドラマなんて、とんでもない。夜も朝も落ちついてテレビなんて見ていられない。
夕食時に子供が見るテレビマンガぐらいで、友だちは「九時すぎたらいいのがいっぱいあるわよ」なんて話すれど私には縁のない話だ。
子供たちと九時のサイレンを合図に、テレビを消して親子ともども寝てしまう。早寝早起きが、わが家のモットーである。
上の二人は小学校で手がかからない、そのかわり下のチビちゃんに、二人分ほど手がかかる。
それでも、まだ子供がほしいなあって友だちに話したら、友だちは「今日の時代に、子供は一人か二人で十分よ。今ごろの子供なんて、親を養ってくれるもんですか」そんなことばを聞くと悲しくなる。
私も主人も子供が好き。だから子供を育て、惜しみない愛を与え、返ってくる愛を、期待なんかしていない。
子供たちが、人生のすばらしさ、生きていることの尊さを知ってくれれば、それで十分。
年とった人から、よく子ばらいの最中が、人生の中で一番楽しく、生活に張りがあるものだとか聞く。
そうかもしれない。朝から晩まで、主人と子供中心に一日がくるくる回っている。
子供に手がかからなくなったら、あれこれ、したいこと、行きたいところ、いっぱいある。
でも、私たち夫婦には、まだまだ遠い先のことでしょう。
大きなおなかをかかえて歩いている私に、みなさん「今度こそ女の子だといいわね」「男だったらどうする」なんて言われるたびに「本当女の子がほしいわ」、「男の子だったらどうしようかな」なんて答えながら、ぜいたくな望みと思いながら、やっぱり女の子がほしいと思っていました。
苦しいお産のあと、「男の子ですよ」の先生の声に、少々がっかりしました。
でも病室から新生児室の、わが子の泣き声の「オギャーオギャー」が、おかあさん、おかあさんって聞こえるようで感無量でした。
ぜいたくだわ、五体満足で健康なわが子に、感謝しなくちゃあ神様のバチがあたります。
主人も「いいよ、いいよ、男の子が四人、結構だぞ」なんて言ってくれます。
もしかしたら、バーもキャバレーもご存知ないまじめなダンナ様は、大きくなったむすこたちを引きつれてバーやキャバレーを豪遊してみたいと思ってるのかもしれません。
そのかわり、大きくなったら、四人の娘がふえるんですから楽しみです。
おばあちゃんをふくめて、わが家は七人の大家族。
町内でも一、二の大世帯になってしまいました。核家族も何のそので、毎朝仏様のお線香のかおりでわが家の一日が始まります。
子供も手のかかるのは幼稚園にはいるまでです。あとは友だちとの遊びに夢中です。
それでいいのじゃないでしょうか。
親を必要とする時は、一生懸命親のぬくもりを伝えてやり、だんだん手を離したら必要な時にだけ、そっと手をさしのべれば。
大きくなった四人のむすこたちに、おふくろの思い出をうんと残してやりたいと、何かあるたびにメモをしたり、文をつづったり、子供たちに貧しくとも心のかよった、ぬくもりのある家庭を残しておいてやりたい。
いい子、いい子の男の子より、いたずらでも、わんぱくでも、少々おぎょうぎが悪くとも、型破りな男の子であっていいと、思っている母親です。
春、桜の花咲くころ、初めてのわが子の入学式に、親も子も胸おどらせたあの日。
あれから、もう二年が去り、この春は三年生になるこの子。
そして去年は、二番目の子供の手を引いて入学式にのぞみました。この子は二年生になります。
桜の花の下を、母と子が手をひいてのぞむ姿は、まるで一枚の絵になりそうです。
入学当時は、親も子も何もかもが、新鮮でめずらしく、一生懸命なのに、だんだん日がたつにつれ、ついつい気がゆるんでしまいます。
『初心忘るべからず』。本当にそうだと思います。
長い学生生活の出発点、いっぱいいっぱい、いろんな思い出をつくってやらなければ。
楽しいことも、そして苦しみに耐えぬく力強い心を、やしなってほしいと思います。
まだ、わが家には、あと二人のむすこの入学式が待っています。四人の男の子たちに、同じように学生生活の思い出をつくってやらなければならない母としてのつとめがあります。
それはまず、初めての小学校の入学式から始まります。
無色からの出発が、いろいろな色に染まり、いつか輝かしい七色のニジをかけることでしょう。
何事も、慣れるということは恐ろしいことです。
『初心忘るべからず』。自分自身にいいきかせています。
めだたない仕事のつみかさね、何となく過ごしても一日、いそがしく動きまわっても一日。だれに評価されることもない主婦の仕事。 でもそれだから、自分だけの主婦の仕事が好き。皆さんはどのような一日を送っていらっしゃいますか?
何となく一日が終わってしまうのでは、あまりに味気ないと思います。私は、いつも日曜日の夜、一週間の家計簿の集計をしながら、次の一週間の予定をたてるんです。
献立も、主人の勤務に合わせて、一週間分を考えときます。時々、安くて新鮮な物があると変更することもあります。でも、献立をたててると、必要な品だけさっさと買えばいいし、ついつい不用なものまで買わなくてすみます。
季節的なものや行事がその週にあれば、それを優先します。幼い子がいますので、無理のない程度にしときます。
たとえば、今週の予定で、月曜はトイレと台所のそうじ、火曜は家の半分のふきそうじ、水曜は残り半分のふきそうじ、木曜はアイロンかけ、一週間分せっせとためときます。金曜日はつくろい物やミシンかけ、土曜はふろ場のそうじ、休みや、ひまな時は、子供たちも、ふろ場をみがいたり、ぞうきんがけを手伝ってくれます。
日曜は、予定をくまず、少し手のかかるおやつや料理をしたり、主人も休みの時は、ドライブに行ったりのんびりします。 次の週は、また別の予定を考えます。本当に、小さなつみかさねです。
夜、子供たちが寝静まってペンを走らせたり、しあわせなひとときです。幼い子がぐずついたり子供が病気になったり、予定通りいかない日も、たびたびです。 でも、それも主婦仕事。そんな時は、何もかも投げ出して子供だけを見つめます。精いっぱい『生きてる』喜びを感じながら、きょうも、あすもせっせと主婦業に励みたいと思います。
PCBによる母乳汚染の実態をつかむべく、厚生省が調査を始めるとの記事を読み、授乳中の母親の一人として、大変ショックでした。
赤ちゃんにとって、母乳は最大の栄養源と信じつつ、生後百日になる子供に、母乳を与えております。
先日の『四季録』を読み、とてもうれしく、ほっとしました。
母親が努力しても出ないのならともかく、努力すれば出るのに、あえてミルクを与えるなど、とんでもないと思います。
ゴクン、ゴクン―のどをならし、一心に母親の顔をみつめてお乳をのみ、時々にこっと笑う笑顔が、私はとても好きです。だくとお乳のにおいがして、ほおずりをしたくなります。
夜、おふろから上がり、両のお乳がからになるほど、たくさん飲んだわが子は、いつか目をとじて、すやすや眠ってしまいます。朝まで、ぐっすり眠るこの子のおかげで、私もぐっすりやすむことができます。
それにしても、もう幾年前のバスの中での、一人の若い奥さんのことばを、私は今も忘れられません。
年の瀬もせまったある日。町へ買い物に出た帰りのバスで、私と同じ所で乗ったその人は、若くて、チャーミングな、すてきな奥さんでした。つぎの停留所で乗った、その人のお友だちでしょう、二人は、友だちの話やら、子供の話をしていました。
ふと、そのお友だちが、その人のバッグに目を止め、
「あら、○○さんこのバッグすてきネ。どこで買ったの?」と、バッグの話になりました。
チェックの大きい、すてきなバッグでした。
その奥さんは、
「ああ、これね。ミルクのラベルがあるでしょう。あれ送ってもらったのよ」。
「あら、じゃあ、あなたお乳出ないの?」。
「うん、出ないこともなかったんだけどね。めんどくさいし、それにミルクのラベル二十枚ためたら、こんなすてきなバッグがもらえるんですもの」。
向かいの座席で聞いていた私は、驚きました。
なぜかそのすてきな奥さんが、とてもとてもあわれに思えたのでした。
カゼ気味の子供を連れて小児科の待合室で順番を待ちながら、古い週刊誌のページをめくっていると、一人のサリドマイドの少年の記事が目にとまりました。
右手は中指だけ、左手はくすり指だけの少年と、お母さんの苦しい生活記録です。
どんなに苦しい毎日だったでしょう。だのに、その少年の文章は、生き生きとしています。
体操のさかあがりがどうしても出来ない。クラスで自分だけが出来ないことを知った少年は、放課後、毎日毎日暗くなるまで、ころびながら一ヶ月練習を続けました。
やっと、さかあがりのできたその少年の顔は、涙でぐっしょり。手は皮がむけ、豆と血だらけ。少年とお母さんは、だき合って喜び泣きました。
音楽の時間―笛がどうしても吹けない。先生は「K君はいいのよ」と言いますが、K君は「先生、僕だけ特別扱いしないでください」と答えます。
この少年の勇気。それから先生が特別練習をしてやって一曲吹けた時、皆のようにじょうずではなかったけど、クラス全員、拍手を送ったそうです。
また、ある日、いじわるの上級生にたち向かっていくK君。「僕は決して負けない、僕は決して泣かない」。その少年を、暖かいまなざしで一生懸命みつめるお母さん。
人の子の親として、もしもわが子がこの少年だったら、私はそのお母さんのように、力強く生きることの尊さを教えられるでしょうか。
健康こそ一番の幸せなのに、健康なわが子に感謝する心を忘れ、ぐちったり、しかってばかり。この少年に教えられました。
子供も社会の一員。いつか社会へ返さねばなりません。何よりも、不幸な子を生まないために、母親と社会が一体になって、力を合わせていきたいものです。
K君、がんばるのよ!あなたなら、きっときっと立派な人になれますよ。
十五日の敬老の日には、全国でも老人のための、催しが行われます。
でも、それが一年に一回の敬老の日にかぎらず、私たちのまわりのお年寄りに、一言の言葉を、あいさつをしてあげるべきだと思います。
「おじいさん」「おばあさん」この一声から素直な心の交流が流れるのではないでしょうか。
だんだん核家庭がふえております。でも、それは『家庭』であって『家』ではないのではないでしょうか。
先祖代々、家とはその家の歴史であり、おじいさん、おばあさん、おとうさん、おかあさんに、子供たち、老いも若きも幼きも、一緒に同居して、はじめて家と呼べるのではないでしょうか。
文化が発展し、高度成長していく中での寝たきり老人、独りきりの老人問題が後をたちません。どうしてなのでしょう。
戦後、法律が変わり、何でも自由になった半面、親に対する子供の責任もうすれてきた風潮を感じ、悲しんでおります。
五人も六人もの子供たちの家を、夫亡き後、老いた母親が転々として行くさまは、何ともやりきれません。
人間だれでも老いていきます。私の家にも、七十三歳になる母が同居しています。
朝、仏様にお茶とうをし、お線香をあげ、家中の無事を祈ります。夜、ローソクに火をともし、一日の無事を感謝します。
子供たちはその姿を、当然と受けています。どこの家でもしていることだと信じています。お盆や、お彼岸の行事も子供なりに、わが家の生活にとけこんでいます。
もう三十年したら私たち夫婦も六十歳をすぎます。私の孫たちは、私たちの姿をどうみるでしょうか。
文化はどんどん進歩しますが、前進するばかりで、立ち止まって考えること、ふり返ることを忘れてはいないでしょうか。
八百屋さんに、ミカンがたくさん出始めました。まだ少し青味のあるミカンをみると、甘ずっぱい、ミカンの味と共に、いまは亡き父のことが、なつかしい思い出と共に、私の胸に甘ずっぱくよみがえってきます。
私が、三つか四つのころ、戦争中だったと思います。たぶん、病気あがりだったのでしょう。
夜になって、ミカンが欲しいとむずかる私のために、父は買いに行ってくれました。
まっ暗な晩だったとか、月のない夜だったのでしょう。
たぶん、ここの横丁を曲がればと、足をふみ入れたとたん、何かにつまづき、父はそばの井戸の中へドブンと落ちてしまいました。
幸いそこの家の人が起きていて、今の音は何だろう、と飛び出て来て、助けてくださったとのこと。
全身ずぶぬれになって帰って来た父をみて、幼い私は、驚きと父に対するすまなさで、いつまでもいつまでも泣き続けました。
ミカンをみるごとに、遠い幼きころの私と、私を育ててくれた父との思い出が、こみあがってまいります。
父は私にとって、育ての親ですが、私が高校卒業してまもなくガンで亡くなりました。
わが子のように、それはそれはかわいがってくれました。
正直で、実直な、だれからも好かれる父でした。その人の好さも原因だったのでしょう、亡くなる少し前に、商売に失敗し、本当に寂しかったのでしょう。
ひどいセキで、どんなにお医者に行ったら、とすすめても、がんとして聞き入れませんでした。きっと父は、自分の病気の恐ろしさを知っていたのかもしれません。
空が澄み、秋風が立ち、ミカンが色づくころになると、むしょうに父のことが思い出されてなりません。
人の子の親になって、父の底知れぬ愛の深さを、ひしひし感じます。大きな暖かさで、包んでくれました。
今もなお、私の胸の中に父はいつまでも、終生、生き続けております。
本を読むことを忘れて久しい。四人の子ども達の世話にあけくれて、読む間がないと、もっともらしい理由を一人つけ、あきらめていました。でも、学校時代あんなに夢中で、読みあさった文学書や詩集。何の進歩もない母親なんて、子どもが大きくなったら魅力なしだわ、一緒にジイドや、O・ヘンリーなどを語れたら、どんなにすばらしいかしらと考え、主人の快い許しで、毎月の家計簿に、主婦本代を計上することになって五ヶ月になる。
夜、蒲団に入り、一番下のチビちゃんの寝息をうかがいながらの、一ページ、一ページをひもとく時、とっても充実した安らかなひとときです。子どもや、主人に心うばわれた幸せな一日の終わりに開く、三十分余の静かなひととき。何もかも静止した、私一人きりの読書のひとときです。
忙しく、何の集まりや、会合にも出席することもないまま、自分の周りだけの日々では、あまりにも進歩がなさすぎるようで始めた読書は、私にとって大きなプラスだと思います。
学生時代、いろいろ読みながらも、ついつい質より量で乱読ばかり。心の中にとまった本が、何冊あっただろうかと悔やまれてなりません。
とはいえ、毎月毎月の本代の出費も、家計をあずかる私にとって頭のいたいこと―。そんな時、一番上の子どもが、市立図書館を利用しよう、と声をかけてくれました。本当に、図書館のこと、うっかり忘れていました。
ある土曜日、下のチビちゃんの昼寝の合間、三人の子どもと図書館に行きました。高卒して、実に十数年ぶりの図書館。それから毎週毎週、子どもとともに図書館通いが始まっております。今度は何を読もうかしら、楽しみです。
二十歳と二十一歳で
夫となり妻となって十三年。
一日一日が、とても大切なつみかさね
世の中で一番いとおしい人。
神経を使う肉体労働の夫。
不規則な勤務のあけくれ、
夫が帰る一時間前から、私は一切外出しない。
夫の「ただいま」の一声に
「おかえりなさい」の一声がかけたくて
にこやかな笑顔を向けたくて―。
四人の息子と、夫に囲まれて
私はこの世で一番の幸せ者。
「何もいらない、おまえがそばにいるだけで」
「私もです」
十三年の年月は、私達の大切な足あと。
でもこれから先の幾十年、
今よりもっと夫を大切に思うだろう。
この人の為なら、生命なんていらない。
「お母ちゃんが大好きだ」と、
子供達の前で私の手の甲にそっとキスをする。
「お父さんすてき」と子供達。
今日も夫のことを思う。
汗水流して働いて、渡してくれる給料袋
一円だって無駄にするものですか。
子供を育てる条件はたくさんあるけど、
何より両親仲良く、家庭が暖かいことではないだろうか。
知名な人にならなくても、出世しなくてもいい、
暖かい血のかよった人間になっておくれ。
他人の不幸を喜ぶような、
そんな恐しい人にだけは、ならないでおくれ。
夫の語る一言一言の言葉は、
私にとって、生きてることの幸せのあかし。
(選者評)
おのろけのようでもあるが、立派な生活であり、心掛けである。
三番目のこの子が、幼稚園に入って九ヶ月余。
毎日帰園してから、今日は○○君、今日は○○ちゃんの所にと自転車に乗って遊びに行ったり、友だちを連れて我が家に来たり、とても毎日楽しそうです。
子育ての経験なんていったら笑われそうだけど、上の二人の兄弟の幼稚園生活の母親としての接し方と、今この子に対する接し方をくらべると自分の幼さを、恥ずかしく思い返しております。
始めて長男を幼稚園に入れた時、入園式の日「お母さん、お母さん」と、羽織をひっぱって泣く我が子になさけないやら、恥ずかしいやら、性格的におとなしい子だったので、なかなかなじみにくく、ずいぶん頭をいためました。
後になって考えると、心配したことが嘘みたいに、二人の兄はたくましく成長してくれました。
今は四年生と五年生。一人前に文句の一つも並べるようになりました。
あんなに弱虫だった子が―。こんなになるんだもの、そう思うと、どっしり気分が落ちつき、三人目のこの子は実にのんびり育って、再来年入園する下の子になったら、もっと落ちつくんじゃあないかしらと、これも子育ての経験かしらと、喜んでおります。
母親として、何より目先のことにとらわれず、広く長い目で、ゆっくり子どもを見つめてやることが、とても大切なことだと、近頃ひしひし感じております。