小犬への祈り 記事へ

どちらかといえば、犬も猫も苦手な私が、たった三日間飼った小犬との別れに、不覚にも泣けて泣けて仕方がない。
かわいい小犬だっただけに、哀れとも、いとおしくとも思え、台所の片隅でポタポタ涙をこぼしてしまった。

   

高三の二男が、早朝の新聞配達の時、ついて来たと今まで犬二匹、猫一匹を連れて帰ったことがある。
最初の犬も利発そうな犬であったが、四日目に二男の高校について行ったきり帰ってこなかった。
今度の小犬は、まだ誕生してどのくらいだっただろうか。
ワンともキャンとも泣かないこの犬に、なぜか、いとおしさが増してきた。
だけど、わが家でどうしても飼ってやることはできない。
ご近所にも迷惑がかかるし、諸事情で犬を飼うわけにはいかないのである。

   

けさ二男が、連れてきた場所に、そっともどしに行ったけど、どんなに後ろ髪をひかれる思いで置いてきたことであろう。
かわいがっていただけに私も二男の気持ちを思うとたまらなく、後から後から涙があふれて止まらない。

どうか優しい人にひろわれて、かわいがってもらうよう、小犬のために祈る思いである。


がんばれ喜代一さん 記事へ

「そろそろ、喜代一さんが来るころじゃあない?」と、息子たちが口をそろえて言う。
毎月一回、定期便のように松山からわが家に遊びに来て、四、五日滞在して帰って行く喜代一さんは、明治三十年生まれ、八十五歳になる私の実父である。

   

毎年、自分の歳の数だけゲタを作り、知人や未知の人に差し上げ、愛用されることを無上の喜びとし、きょうもせっせとゲタ作りに励んでいる。歴史教室、老人大学と意欲的に勉強し、己を高めていく姿に私も歳をとったら、そうなりたいと常々思っている。

   

四国二十九番松屋寺のご住職さんが、「三度の食べ物にも文句を言わず美味とほめ、人と気まずいことがあっても、わが身の至らぬせいと思いなし、グチなく怒らずむさぼらず」と、説教されておられましたが、まさにその通りの生き方である。

夫も私も子供たちも、みんなみんなおじいちゃんが大好きです。
とても元気者なのでその昔、「じいちゃんは百歳まで大丈夫よ」と、めいが言ったら「百歳までしか生きられないのか、もっともっと生きたいのに」と言ったエピソードの持ち主である。

   

もっともっと勉強し、いつまでも元気でいて欲しい。
フレー、フレー、喜代一さん!


お魚だいすき 記事へ

現代っ子の好きな食べ物ベスト・スリーは、カレー、ハンバーグ、スパゲティだそうです。
だったらわが家の小五の四男は失格です。何しろ好きな食べ物は、ムギごはんにお魚、それも高価なタイ、コズナではなく、サバ、イワシ、ゼンゴ等々大衆魚である。

もっとも家族の多いわが家では、赤いお魚を食卓にのせるのは数えるほどなので、自然大衆魚に舌がならされたのかもしれない。

   

煮魚の日は、「ヤッター」と大喜び。

主人が時々魚つりに行き、キスをよく釣ってくる。三枚におろし、まん中の骨ももったいないので、骨せんべいにしてカラリとあげ、食塩をふりかけると、カリカリとおいしそうに食べてくれる。ごはんも白米より、ムギごはんが大好きで毎日喜んで食べてます。

   

「焼肉が食べたい」「分厚いステーキが食べたい」と言う兄たちに比べ、彼は純日本風?を好み、おしる粉もまた大好物の一つです。
今日もきっと「晩のおかず何?」と、聞くことでしょう。
「お魚よ」と答えたら、きっと言うでしょう。
「僕、お魚大スキ!」と。


ダッシュ!スタート! 記事へ

ことし米寿を迎えた実父は、とても元気です。
松山の山越えにある自宅から、道後温泉へ自転車で通うのも日課の一つ。
ペダルを踏みながら走り回るおかげで、地理にも秀で、なに町のどこ、○○さんの家はどこ、などなど―実によく知っています。

   

年に一回ほどしか松山へ行かない私など、足元にも及びません。
また、時間の許す限りせっせとげた作りに精を出し、知人や友人に差し上げて喜ばれています。

質素、粗食をモットーに、本を読み、絶えず向学心おう盛な父から学ぶことの、なんと多いこと。
私たち四人の子供には計り知れない、苦労や貧乏の苦楽八十八年。父の人生の生きざまは、言葉や文字で書き表せないことも多いと思います。

   

夫婦ともども、六十年の結婚生活を迎えられたことは、喜びも大きいと思います。
どうか、二人とも長生きしてほしい。次は、結婚生活七十年に向かって、ダッシュ!スタート!


晩秋のころ 記事へ

病院の窓から外を眺めながら、家々の明かりがともるころが、一番さびしく、つらい時間であった。
三年前、胃の手術で入院したころの思い出だ。

    

当時、長男は高三、末っ子の四男が小四であった。
四人の男の子に心がかりながら、八十日間の入院生活の中で、夕ぐれ時が無性に人恋しく、せつなく思えたことはなかった。

胃や腸や、さまざまの手術をした人の病室で、優しく言葉をかけて下さった人が、亡くなった時など、本当に切なく涙したことだろう。
あれから、もう三年も過ぎ、元気であることが、こんなにも幸せか、と一日一日が大切に思えてならない。

    

当時、高三、高二だった二人の息子も、今は社会人となり、小四だった四男も中学生になった。
三年の年月は、子供とともにまた私をも成長させてくれた。
高三だった長男の大切な進路選択の時期に、病室の窓からどうか彼の望む道に就職できますよう、幾度祈ったことだろう。希望通りの道に進め、今、彼は派出所勤務の明け暮れの中にいる。
さまざまの病気で入院生活を送っておられる患者さんの中にも、当時の私と同じように、晩秋の窓を眺めていられる方もいらっしゃるだろう。

    

坂村真民氏の詩の一節に「自分が置かれたところを喜び、その場で自分なりの花を精一杯咲かせること」とあるように、私も精いっぱい名もない花を咲かせたい、とつくづく思う。