四男 記事へ

四番目の男の子として、誕生した中二になるわが家の四男。
主人も私も、そして三人の兄たちも、男の子はもう珍しくなく(?)、育てたのではなく、育っている息子は少々の事では動じない。
良い意味での「野太さ」と、ウイットとユーモアにあふれた男の子に育ってくれた。
「ツー、カー」とすぐ反応するトンチと明るさいっぱいだ。

    

お魚と果物が大好物でリンゴなら一度に四、五個はペロリ。未来のお嫁さんは、好物のものがただで食べれる?漁師か、魚屋の娘さん、それとも果樹園か八百屋の娘さん、いっそ何でもそろってるスーパーの娘さんにしようかと、話してみたり。夫と二人で大笑いしている。

三人の兄たちにはお嫁さんは、「弟を大切にし、優しくて、お小遣いをくれる人」をもらうようにと頼み込んだり。チャッカリぶりに苦笑いする。

    

将来、何の仕事をし、自分を向上させようかと、話し合ったりの日々は、子供が多い分、悩みや心配もある半面、親としてどれだけ、子供から学び、教えられることが多いことでしょう。
四人の子供に恵まれ、幸せな子育てであったことか―。ありがたいと、しみじみ思うこのごろです。


雨降りの下校 記事へ

急に降りだした雨音を聞きながら、子供たちが帰宅するまでにあがればいいと、空を見上げながら、ふっと四者四様?の雨降りの帰宅に思いをめぐらす。
朝、登校する時は晴れていても、下校するころに降りだしたりすることも年に数回はある。雨降りの下校もさまざまである。

   

二十二歳になる長男の学生時代、すべてきちょうめんで用意周到な彼は、降ろうが降るまいが、いつもカバンの中に傘を入れていた。
友人のお母さんが、「林君と一緒の時は、雨が降っても決してぬれて帰ることなく、助かります」と、あいさつして下さった。

一歳年下の二男は、長男と反対。ぬれての帰宅。
決して他人様から借りて帰ることはなかった。どしゃぶりの時は、全身びしょぬれ。
独立心旺盛で、どんな苦難も決して弱音をはかない彼。


高校生の三男、学校が目と鼻の先、たとえ朝降っていても、誘ってくれる友人の傘に、するりと入り、帰りはだれかに声をかけて帰宅。
温和で明るい性格は、だれにでも声をかけられるのだろう。
この分では、三年間傘を使うことがあるだろうかと疑問に思う。

末っ子の四男、チャッカリしてる彼は、決してぬれて帰ることはない。
傘を持ってる友人の家まで行き、傘を借りて帰ってくる。
同じ兄弟でも、本当にさまざまである。

   

人生の道のりもまたさまざまでしょう。
だけど高速道路を猛スピードを上げて走っては何も見えない。
ゆっくり、路地をみつけたり、ぬかるみの道に出会ったり、野に咲く花にも手をのばし頬笑みを忘れることのないように、生きていってほしい!


三男と柔道 記事へ

三男の机の上に置いてあるプリントに、ふと目をおとした私は、おもわずほほえんでしまう。
「ねりかんブルース」の曲に合わせて作ったのでしょう。三男のH校柔道部の歌詞は......

    

好きで始めた訳じゃない
嫌いで出来よか柔道が
すねの蹴り傷、打ち身傷
傷も今では、百余ヶ所

可愛い、あの娘に会った時
思わず隠した、この耳を
なんでしたのか、柔道を
けれども、これが勲章さ

    

青春を完全燃焼できる一つのものがあるということは、何てすてきなことだろうか。
ふと、私の高校時代を振り返ると、運動神経の鈍い私はもっぱら、石坂洋次郎、有馬武郎、武者小路実篤に陶酔し、当時「葦」の月刊誌に投稿しながら過ごした三年間は、二十七年経た今でも、走馬灯のごとく思い返すことができる。

    

だけど三男のように全身全霊打ち込める青春にはとてもかなわない。
成人した時、きっと三男の脳裏には、柔道に打ち込んだ、あつい思いが珠玉のごとく、光輝いてほしいし、一つのステップとして、大きく羽ばたいてほしい。

八十数キロの彼に、私は時々用事以外にも「あっ君」と、声をかける。
「母ちゃん、なに?」と、にっこり笑って、答える彼の笑顔がたまらなく好きだからである。


子育て日記 記事へ

手が届かないと知りつつ、雑誌やテレビのマイホームに憧れながらも、なぜか長屋の一隅のわが家に愛着をおぼえる。
やはり貧しい生活の中で、一生懸命育てた息子たち四人と、私たち夫婦の息吹が、においが今もこもっているからなのだと思う。

   

お彼岸のおはぎを作りながら、四人の息子たちに、「春のボタンの花咲くころはぼたもち、秋の萩の花咲くころはおはぎというのよ」と話しながら、ナベについたあんこを指でつついてほおばりながら話した。
大きなおナベで、豆をいったのも、ついこの間のようだった気がする。

   

長男も結婚し、良き伴侶を得、うれしい春である。
四人の子育てで、とても家を建て替えることはできなかった。
子供たちにも独立した勉強部屋もなかった。
貧しさの中で、心の貧しい子にならないように―それだけを心して育てた。

   

制服以外の私服は、Tシャツだけ。
どこへ行くのも学生服。先日の長男の結婚式にも、三男、四男は丸坊主の学生服で出席した。
ビデオもなければ、ステレオもない。でも、だれ一人子供たちが、買ってほしいと口に出さなかった。

   

高校時代の長男、二男、そして今三男も丸坊主。もちろん中学生の四男もしかり。
『林理容店』?ならぬ父親のバリカンさばきも、年期が入り、会社が定年になったら、丸坊主専門理容店を始めようかと、笑えるほど腕も上達?した。
未完成の私たちが、子育ての中で学び、教えられたことは数えられない。
何もかも恵まれた生活の中での、子育てでなかった。ハングリーな生活の中で、知恵と辛抱を教えたような気もする。

   

これから、二男、三男、四男とそれぞれが良き伴侶を得たら、私たち夫婦の子育ても終わる。
そしたら、夫婦の胸の奥に、いっぱい、いっぱいしまっている大切な子育てのページを、夫とともにひもときながら、大切に心あたためていこうと思う。


お勉強 記事へ

学生時代も、家庭に入っても、随分本は読んでる方だと自負していた。
近ごろふと気がつくと、本もいいかげんに読んでいるのに気がつき、あぜんとした。

漢字も書くのはもちろん、完全にお手上げで、ちょっと、むずかしくなると全然だめ。
読む方も同様、今までついつい前後の文章から解釈して、ああこうなんだなと、自己流に読んでいた。

   

ところが五十歳近くになり、人生の半分も過ぎてしまうと、「これではいけない。少しでも知ることは大事なことだ」と、反省するようになった。
まず、本を読む姿勢を変えないと、一生損をするんじゃあないかと考えるようになった。
それからていねいに、ていねいに読むことにした。漢字を辞書で調べ、意味を調べるうちに、本当に、本当に自分の不勉強さが情けなく恥ずかしくなってしまう。

無知なことの何と多いことか。

四人の子供たちに、これでは十分なことを教えられなかったと、成人した息子たちに心の底からわびる。
学ぶということ、知るということの大切さを、子育てが終わるころ反省するとは情けない。
今からでも遅くないかもしれない。
少しずつ好奇心をかき立てて、頑張ってみようと思うようになると、何だかとても新鮮な、驚きさえ感じるようになった。

「さあ、お勉強しよう!」という私のセリフを、夫も息子もきっと「いつまで続くのかな?」と、みているんじゃあないだろうか。