「手なべさげても」なんて言葉は死語になってしまった。少しでも条件の良い相手を探し、苦労のない生活を親も子も求める。
この人と一緒ならどんな苦難も耐えられる、と強い信頼で結ばれた私たちは、死語になった結婚生活のスタートだったけれど、ふり返ってみてけっして惨めだったとか、つらかったという思い出は不思議とない。
無からの出発は、何でも二人で相談、少しずつ生活用品を求めた。結婚した翌年の大きい買い物は、ボーナスで扇風機を買ったことでした。涼風が心地良く、ささやかな幸せだった。南こうせつの『神田川』を聴くたびに、結婚生活二十八年が昨日のことのようによみがえってくる。
来春、四人目の末っ子が巣立つと、元の二人暮らしにもどる。若さも遠ざかり、あいかわらず貧しい生活だけれど、温かさがいつも家族を包んでいる。長男は本当に良いお嫁さんにめぐまれた。後三人の息子たちも願わくば「一緒に苦労したい」と、とび込んできてくれるお嫁さんを求めなさいと言いたい。
長い人生の中で、二人して五十歳に近づき、再出発の時期を与えてもらった。長男から四男まで、子育て二十七年間の思い出は、子供たちに教え、教えられたすばらしいときめきの日々であった。
折にふれ、ひもといてみる過ぎし月日は、宝石にも似た輝きと余韻をしっかりきざみ込んでいる。再出発をするこれからも、ただひたすら努力し『実年神田川』なるせつなさにおもいをはせながら...。
沢村貞子の『わたしの献立日記』の中に、「お裾分けは、好きなものも多すぎてはもてあます。お裾分けはお福分け、お互いにあれこれ分け合う楽しさ、心が豊かになる」とのべておられましたが、その通りだと思います。
何でも多ければ冷凍保存できる昨今です。でも、あまりにも寂しいじゃあないかしら!
「釣りに行って釣って来た魚よ、食べてね」
「お野菜たくさんもらっちゃったの、みずみずしいうちにどうぞ」
「お菓子焼いてみたの」「たくさんお菓子いただいてしまって...」
そのほか、手作りのうの花やちらしずしなどもお裾分けすれば喜ばれます。
そして、
「おいしかったわ」
「あのケーキ、どうして作るの教えて」
「この間の○○名産の菓子、味が良かった」などうれしい話が重なります。
近所にお福分けできる友人がいることは、何よりありがたいと思います。
お福分けの豊かさは、何よりおつき合いの節度が大事です。それは一本りんとした線を引いたおつき合いです。
無遠慮に他人の家庭に深入りしては悲しい結末になってしまいます。
『お裾分け』は、品物ばかりでなく、思いやりの心をそえて分けられる『お福分け』だと信じています。
四人の子供たちが結婚したり自立した今、夫婦二人の生活が始まりました。
考えてみると、結婚して一年目に長男が生まれ、次々と四人の子供に恵まれた。一昨年八十九歳で亡くなった養母をまじえ、七人家族の中で夫婦の会話のほとんどは子供中心だった。
折りにふれ子供たちと語る会話は今もなお、珠玉のようにこの胸に残り、喜びも寂しさも、私たち夫婦の胸中深く生きています。
今年四月に末っ子が自立し、夫婦としての会話が始まった。
二十九年間の結婚生活で初めて二人だけの会話です。話しても、話しても、話はつきない。
仕事から帰った夫と語る時間はとっても長く、子育ての時にくらべ、何時間も多くなった。ついつい夜寝る時間も遅くなってしまう。
会話の内容もさまざまです。たわいもない話から、とめどなく流れる会話は今の私たちには『生かされている』心の栄養剤のようなものです。そしてあすへの生活の原動力なのかもしれない。
これからもまだ末永い二人三脚の人生、精いっぱい語りたいものです。
夫婦だから黙っていても分かるつもりでも、やっぱり話しかけてほしいし、話しかけたい。労や励ましは今の私たちにはかけがえのない会話です。
けれどもやっぱり二人の心の中には子供たちとのすてきな会話の思い出があり、生きていく上での最高の輝きでありました。
子供のころ、夜空にでた月を眺めながら、母はよく「きれいな、のんのさまが出ているよ」と声をかけてくれました。そして必ず、のんのさまに手を合わせ祈っていた。
私もまた子供たちが幼いころ同じように、幼児に声をかけ、「のんのさま、はーい」とかわいい手を合わせる子らとともに、両手を合わせ「どうぞお月様、この子たちが健やかでありますように」と祈りました。
二人の孫たちと夜空を眺めながら、
「クニちゃん、ほらのんのさまがきれいね」
「おばあちゃん、のんのさまってどれ?」
「ほら、お月さんのことよ」
「ふーん、お月さんは、のんのさまなの?」
たわいのないやりとりですが、温かい言葉のぬくもりが、無性にうれしいのです。
ところが、だんだん日本古来のたおやかで、ぬくもりのある響きが少なくなってきているようで寂しく思っています。
「のんのさま」は仏様でもあります。
お仏壇に祈りながら、亡き人もみな「のんのさま」であるのです。
「クニちゃん、ひいおばあちゃんものんのさまよ」
「?」
「ひいおばあちゃんの、のんのさま、どうかクニちゃんとタマちゃんが病気やケガをしませんように見守ってください」
声をかけながら、ローソクに灯をともす私を孫たちは不思議そうに首を傾け、それでもにっこり笑いながら手を合わせていました。
「のんのさま」―なんて、すてきな表現でしょう!
ご近所で仲良くしているMさんは、私にとってとても大切な友達である。清楚という言葉がぴったりの、さわやかな女性だ。
四十歳半ばなのに、とても若々しく娘さんのように生き生きしている。
息子さんが、十六歳のとき交通事故で下半身不随の車いすの生活に入り、もう五年になる。その間の苦労は計り知れないもので、近くにいると、彼女の大変さを実感として受け止めることができる。
でも決してその苦労を悲痛なものとせず、常に前向きに努力し、一生懸命、息子さんの世話をしている彼女に、本当に頭の下がる思いでいっぱいだ。
現実をしっかり受け止め、自分に課せられた宿命だと心にきざみ、それをバネに弱気になる自分を叱咤し優しく接している彼女の姿に、とても大きなものを感じさせられる。
この五年間で彼女はずいぶん成長し、同時に私が教えられたことも多い。
私自身、ともすれば当たり前だと受け止めている数々のことが、どんなに大切でありがたいことか、しみじみ思いかえされる。
「常懐悲感、心遂醍悟」と法華経の中にあるが、彼女はその「悲感」を自分の心に醒まし悟りに至らしめた素晴らしい品性を持っていると思えてなりません。
常におしゃれ心を失わず、お料理も抜群、女性の良さをいっぱい持ち合わせている彼女。
友人の一人として心をこめて彼女へ拍手を送りたい。
でも、時々ふっと、身も心も安まる時間をプレゼントしてあげたくなる。
そんな時、野仏の山へ彼女をさそってみる。大自然の贈り物が今の彼女には最高にふさわしいものだと思えるから―。
宇和町の明石寺へお参りしようという知人の誘いで同行した。
時々お参りするが、今まではほとんど車だったりバスで行ったりしていた。乗り物に酔うという知人は汽車で行くというので大喜び、子供のようだと夫は笑っていた。
駅から明石寺までの道のりでは、古き良き時代を思い起こし、路地のあちこちの家並みからたまらなく懐かしい心地がする。
歩いていた町の軒下に「指物大工」の看板を見つけて忘れていたものをみつけたような温かみをおぼえた。
こぢんまりした洋品店もあった。ウインドーを眺めていた私たちに、店の主人はとってもきれいな優しい言葉で声をかけてくれた。ぬくもりのある響きがうれしく、何にも買わず立ち去る私たちに、にっこりほほ笑み、静かに頭を下げて見送っていた。
今度来たときはぜひあの店でブラウスの一枚でも買って帰りたいと思った。
宇和町の町並みや路地で見つけたささやかなぬくもりがとってもうれしく心がなごんだ。
宇和町の町並みが近代的に変わってほしくない勝手な願望でいっぱいになった。
昨年の年明け、三男の結納も無事終了。
ほっと安堵した私たちは道後の宿を出て、のんびり街を散策。とあるパチンコ屋さんの前で、夫が「入ってみよう」と声をかけた。
この年までパチンコをしたこともない私は、とんでもないと手を振るのに、めったにないことだからと無理やり店内におしこまれてしまった。
不器用で勝負事には無縁の私をイスに座らせ、夫は二千円分の玉を私にもたせる。
「二千円もあれば、たくさんのお野菜が買え、おいしいおかずが作れるのに」―頭の中をそんな思いがよぎる。
横に座った夫はさっそく、チンジャラチンジャラと開始。
それなら私もと始めてみるが、たちまち玉はなくなりはじめた。早く終え、宿に帰ろうと残りの玉を打っていると、どうしたことか!
チンジャラチンジャラ、出るわ出るわ。
あいにく隣の夫は席を立っていて、私は出る玉をどうしていいか分からず右往左往。
大きな声でお店の人を呼んで「すみませーん。玉が出て、玉が出て止まらないのです。止めて下さい!」。
走ってきた店員さん、玉入れ箱を並べ、私の顔をながめながら「私も長い間パチンコ屋に勤めていますが、玉を止めて下さいと言った人は初めてです」とあきれ顔。
夫が席にもどり、満面笑み。
それからどうしたのかって?モチロン現金に替え、めったに買うことのない超高価な夫のネクタイを求めた。
これに味をしめ、パチプロでもと夫は心配?とんでもない、後にも先にも、これ一回きり。
本を手元に置いておかないと落ち着かない性分は、昔も今もちっとも変わらない。
読書をすることは生活の中にしっかり根づき、一日のわずかなひととき、ページをめくる時間、充実と幸福感を思う。
昨年から独居の方々とふれ合う機会が多く、訪問するうちに、とっても本の好きな方がおられ、よく本の話をするようになる。
そして読んだ本について、私はこんなところが共鳴するとか、文中の人物の生き方、考え方等々を瞳を輝かして話される姿に、私も年を重ねてもこの方のような女性になりたいと、しみじみ思う。
何よりも心豊かに、優しくなれるような気がする。一日の生活のリズムの中での、わずかな時を大切にしたい。
でも時々、分からない漢字や横文字を調べることの煩わしさに、つい息子に声をかけてしまう。
「これは何と読んだらいいのかしら?」「この横文字、どんな意味かしら?」。
息子はそのつど、しっかり辞書を引き教えてくれる。でもそれに甘えて無精になる自分を反省、近ごろは国語、漢和、和英辞書を手元に置くことにした。
そして今、以前から読みたかったユン・チアン著「ワイルド・スワン」の扉を開こうとしている。
激動の中国を生き抜いた三世代の女性のノンフィクションに感動し、感嘆していくであろう自分に、今たまらないときめきを感じる。
「ワイルド・スワン」にのめり込むひとときが、当分続きそうである。
*<ガン告知>という言葉を耳にすることが、珍しくなくなりました。
*今年は、秘めだるま周辺の<ガン告知>に対する意識調査を行ないます。
1、もし、あなたが<ガン>になったとき、告知してほしいですか?
・ はい ( してほしい ) ・ いいえ ( されたくない )
2、それは、どうしてでしょう?
3、過去、あなたの親しい人の<ガン告知>を経験したことがありますか?
・ ある ・ ない
4、( ある人のみ ) そのとき感じたことを、何でも書いてください。
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1、はい
十二年前、私も胃ガンになり胃全除の手術を受けました。
まだ若かった私は、医師から悪性だと告げられても自分は絶対に死なないという強い強い確信がありました。
当時、高三の長男を頭に、小四の四男の四人の息子達を残してどうしても死ねないという、強い生命力を持っていたのではないかと、今、振り返りしみじみ思います。
今もし再発したり転移したとしたら、今ならハッキリ告げて欲しいと思います。後どんだけ生きられるかー。
2、
そしたら私は、すべてを神仏に託し、夫や息子、お嫁さん達に心の底から感謝しながら優しく穏やかに生きていけると信じています。
以前には家族一人ひとりに私の思ひを書き残したいと思った時期もありましたが、今は、そんなことは止めようと考えるようになりました。
妻として、母としてさりげなく散っていきたいものです。
この世に生を受け、いつか去るこの現世のひととき、どれだけ長く生きられるかではなく、どれだけ優しく生きられるかではないでしょうか。
3、
ない
「あなたにも今にわかると母言ひし 老いゆく思ひ知りそめにけり」。
中央紙の投書コーナーでこの句を目にし、実感としてしみじみ思うこのごろです。
十年前に亡くなった養母も、そのようなことを時々口にしていましたが、当時若かった私には子育てに忙しかったせいもあり、ついつい聞き流していました。
今になってその一つ一つの言葉が胸にしみます。
私もそんな年に近づいてきました。
親の年になってみないとなかなか理解できないことも多く、今こんなことを子供たちに話しても、まだ若い彼らには当時の私同様『老いゆく気持ち』は分からないのではないでしょうか。
幸い私の実の両親は松山に健在で、十一月に満百歳になる父と、九十五歳になる母が元気でおります。
特に父の気力、パワーはすごく、面倒をみている七十歳になる兄も驚いております。
好物のウナギなら毎日でも食べたいようですし、ご飯は朝からどんぶり茶わん一杯をたいらげるそうです。私の一日分です。
頭もしっかりし、電話もよくかけてきます。新聞も時間をかけてゆっくり読んでいるようです。
父のこの元気印の源は一体何だろう、といつも兄や姉、弟たちと話しています。
『老いゆく思い』は一人ひとりさまざまでしょうが、最後に求めるものはやはり優しさではないでしょうか。秋風に身をまかせながら、ふとそんなことを考える毎日です。
華やかなカサブランカや、深紅のバラは、立ち止まって感動することがしばしばあります。
でも、そうした感動と異なり、決して派手さはないけれどいつも心を癒す野の花は、とっても大好きです。
四人の息子たちが選んだそれぞれの伴りょは、本当に野に咲く花々のような娘たちです。
派手さもなく、決して出しゃばらず、風雪にも耐え、どんなに踏まれても「きっ」と立ち上がり、小さな花を咲かし続けてくれるであろう彼女たち。
夫も私も、そんな四人が大好きです。
よくぞこんなすてきな四人を選んでくれた息子たちに、感謝しています。
春に芽吹く名もなき花々は、しっかり根を張り、たくましく育つエネルギーを持っています。
私はいつも彼女たちから、このエネルギーをもらっている気がしています。
娘を持たない私たちに、神様は四人も素晴らしい娘をさずけてくださいました。
これからも、どうかあせらず、ゆっくり小さな野の花を咲かせてほしいものです。
結婚して四十年近く、夫婦として歩んできました。息子たちの野の花は、私ども夫婦の大切な宝です。