母尚子は平成16年3月8日午前5時10分に逝去しました。
満63歳でした。
亡くなる二週間ほど前に大量に吐血して入院をしました。
食道静脈瘤破裂によるものでしたが、肝臓が肝硬変のようになっていて、血液が肝臓に行かずに、
食道へ行く血管が膨張して破裂したとの説明を受けました。
吐血してから二日ほどは容態が悪く、輸血も2リットル近くし、先生から身内の人に連絡をしといて下さい・・
と言われたほどだったのですが、胃カメラを使い止血処置を行ってからは容態も良くなりました。
もう一度処置を行い、病状が安定したら退院が出来ると先生から言われ、入院して一週間後くらいから食事も取れるようになり、「おっと多いね、いろんなのが出てくるね」と言いながら元気に話をしていました。
それが亡くなる前日ぐらいから発熱を起こし、呼吸をするのが苦しくなってきて、話をするのも精一杯になってきました。
先生の説明によると、思っていた以上に肝臓が機能しなくなっていて、それに伴い腎臓の機能も働かなくなり、
お腹に水が溜まって、それが肺を圧迫して呼吸が困難になっているということでした。
延命治療については、生前から母もそして父も望まないことを話し合っていて、亡くなる前にも父が母に確認していましたが、ただ生存を伸ばす為だけの治療はしないで欲しいとの母と父の強い気持ちがありました。
それで私たちは母を見守ることとなり、亡くなる一時間ちょっと前まで、父は母にあふれんばかりの感謝の気持ちを伝えていたようでした。
それから父と交代で私が母と一緒になり、私もまた心からの感謝の気持ちを、母は返事はしませんでしたが、精一杯伝えていきました。
そして最後にニッコリと笑ったような顔になり、何度か口をもぐもぐさせた後、この世を去りました。
母の生涯を振り返りますと、困難の多い人生でした。
生まれたときに血にまみれていて、このままでは助からないと言われたらしく、祖母の姉夫婦が、それは不憫だ・・
それならということで、子供がいなかった姉夫婦の養女になりました。
そのときたまたま外国帰りのお医者さんがいたらしく、その人の治療のお陰で母は助かり、元気に育っていきました。
祖母の姉の夫である養父は商売をしていて、景気の良いときは大層実入りもあったようですが、それも長く続かず、
やがて商売に失敗し、家も差し押さえになったそうです。
高校を卒業した母は、バス会社に就職したのですが、そのころに養父も亡くなり、養母と母だけで生活をしていました。
働いたお金のほとんどを養母に渡していたため、お小遣いもない母でしたが、当時気に入った服を買うために無理をして残業をしていたところ、体が疲れていたためか仕事中に事故に遭い、左足に大けがをしてしまいました。
二年間ものあいだ入院をして、足の機能は元に戻り不自由なく生活をすることが出来るようになったのですが、左足に大きな傷跡が残りました。
それ以来、母は足が見えるようなスカートを穿くことはありませんでした。
職場に復帰した後に、母と父が結ばれるようになるわけですが、父は母に大層惚れ込んでいたようです。
左足のけがと養母がいる母は、はじめは結婚することに躊躇していたようですが、父の強い想いがあり、もちろん母の父への想いと、そしてやはり縁というべきなのでしょう、めでたく結婚することとなりました。
結婚後子供に恵まれ、四人の息子を授かったのですが、父と養母、そして食べ盛りの四人の息子を育てるのに、
さぞかし大変なことだったと思います。
お米が足りなかったためか、ご飯を食べないときもあって、家族の食事が済んだ後にパンやうどんを買って食べていたということを、私も大人になって知りました。
家事に追われていた母が、よく一日30時間あればいいのにと言っていたのを覚えています。
母が、40歳過ぎのとき、胃ガンになりました。
もしかしたら助からないかもしれないとのことでした。が、胃と脾臓を摘出して、持ちこたえることが出来ました。
そのとき同じ病室に、おそらく同じような病状の人が何人か一緒にいまして、入院中か退院後かは知りませんが、母以外の人は皆亡くなったそうです。
後に母が言っていましたが・・・
あのときはとにかく子供を育てなくてはいけない、このままでは死ねないとの強い気持ちがあったそうです。
その後、その気持ち通りに私たち息子を一人前の大人に育ててくれました。
その後も様々なことがありました。
養母が亡くなるまで、養母の世話と看護をしていました。
また、子供の就職で心配したり安心したり、子供の結婚で喜び、四人の息子とも良い嫁が来てくれたと喜んだり、父の体を心配したり、人とのふれあいを楽しんだり、喜んだり、ときには悩んだり、民生委員をしたり、子供が授からない息子夫婦のことを気遣い、その後子供が授かったことに喜んだりと色々なことが母の人生にありました。
父が、母が亡くなる4年前に退職してからは、一日中夫婦二人で生活をしていたのですが、息子の私が言うのもなんですが、とても仲の良い夫婦で、いつも笑いながら暮らしていました。
ずっと一緒にいるのに、どうしてこんなに話が尽きないんだろうと思うほど楽しい会話を交わしていたようです。
まるで新婚のように・・・。
あるとき、肝炎を患った父と一緒に母も肝臓の検査を受けたのですが、父と同じような数値を示していて、肝臓が悪いのが分かりました。
亡くなる一年程前にも吐血をしたのですが、その後除々に良くなり、何ヶ月か後にはすっかり良くなっていました。
その後も定期的に病院には行っていました。
それが突然の吐血をして入院し、このようなことになってしまいました。
入院後、一時は良くなって、父はもちろん私たちも最後のふれあいをすることが出来たのですが、
思えばそれは母が最後にそういう機会を作ってくれたのかなと思っています。
それは、母が亡くなって二週間後のことでした。
父が押入を片付けていましたら、母が父と四人の息子に宛てた五通の手紙が出てきました。
思いもよらないものが出てきて父はビックリしていました。
父に宛てた手紙は、父に対する愛と感謝があふれていました。
ずっと私だけを見ていてくれてありがとうと、一緒にいて幸せでしたと、心揺さぶられる言葉が綴られていました。
きっと父は何度も何度も読んだことだと思います。
母のことを思いながら・・・
兄達に宛てた手紙同様に、私に宛てた手紙からも母のあふれんばかりの優しさを感じました。
私に対するありがとうや、私の嫁と娘の素晴らしさ、その大切な二人を終生守ってあげてねと、
また父を兄弟仲良く見守ってあげてねと書いてありました。
また、「書くことはあまりにもたくさんありますが、母さんの人生、本当に幸せでした。ありがとう!」とありました。
あらためて母の素晴らしさを感じ、私たちの母でいてくれたことに感謝しました。
優しくて明るくて、私たちにとっては最高の母でした。
母であったことを、いまもこれから先もずっと誇りに思っていますし、心から「ありがとう」と言いたいです。
私たちの心の中で母は生きていますので、母との思い出と絆を胸に、優しさや明るさといった母が与えてくれたものを育みながら、今まで以上に日々を、そして人とのふれあいを大切にして生きていこうと思います。
そうすることが母の供養にもなるでしょうから。
懐かしく想い出す母の人生 記:NORI